言葉ではないもので 西城秀樹 書きおこし

西城秀樹さんについて語られた言葉を記録しています。

阿久悠さんが綴る西城秀樹さん~「西城秀樹 5年の歩み」に寄せて~

open.spotify.com

 もし彼が、音楽より先に野球に興味を抱いたなら、広陵高校なり、崇徳商業のエースとして、甲子園で大活躍し、プロのどこかからドラフト一位で指名され、スポーツ新聞の芸能面ではなく、一面をにぎわしていたにちがいない。

 

 もし彼が、少々古風なところを持ち合わせている青年で、江戸の粋などというものに興味を抱き、鳶職を志したなら、梯子乗りの花形鳶として、ある筋から拍手喝采を受けているにちがいない。

 

 もし彼が、そういう風に考えて行くと、水泳選手でも、マラソンランナーでも、プロボクサーでも、レーサーでも、ガラリと変って、漫画家であっても、デザイナーであっても、歌手である今と同様の情熱で打ちこみさえすれば、必らず第一人者になっているであろうイメージがわくのである。

 

 そう思える西城秀樹がぼくは好きなのである。

 

 歌を歌うしか能がなかったというのではなく、何でも出来る、しかし、歌うことが一番好きなのだ、という西城秀樹であってほしいと思うし、又、きっとそうに違いないと思っているのである。

 

 

 西城秀樹も少年から青年になった。

 

 デビューから5年である。

 

 ひ弱にさえ思えた長身も、いつの間にかたくましさを備え、黒光りする獣の魅力さえ匂わせて来たようである。

 

 そして、まだまだ稚くはあっても、男のロマンのようなものを感じさせたりもする。それは、無償のものに対して、理由もなく情熱をそそぎこむ男の稚気のようなものである。今の少年や青年の中からすっかり影をひそめてしまったそういうものを、やっと青年に足がかかったばかりの西城秀樹に感じるのである。

 

 それが、作詞家としてのぼくを刺激する。

 

 デビューから三年間は、ぼくはモニターといおうか、ファンといおうか、そういう立場から、この刺激的な少年を見つめていた。

 

 ぼくが、実際に詞を書くようになったのは、昨年の「君よ抱かれて熱くなれ」からである。そして昨年は、「ジャガー」「若き獅子たち」という第一期の三部作を三木たかしとともに発表した。

 

 少年の恋心、少年と少女の愛のパッションという時代から、大人の愛の場面を歌う時代に入る前に、ぼくはどうしても、男の認識の時代を彼に与えたかったのである。

 

 それを経ることによって、女性の美しさも見え、愛の哀しみも感じられ、又、それを人に伝える説得力も自身に備えて来ると信じたのである。

 

 愛とは勇気なんだと歓喜に満ちて歌った「君よ抱かれて熱くなれ」

 

 愛とは闘争なんだと狂熱の叫びで歌った「ジャガー」

 

 太陽に向い歩いてる限り、影を踏むことはない。風よなぶるな獅子のたて髪を、涙を飾れない時であれば、と雄々しく立ち上がった男を歌った「若き獅子たち」

 

 この三部作で何かが変ったはずである。

 

 西城秀樹を変えた自信がある。

 

 ある人には少々の変化というくらいにしか見えないかもしれないが、ある人には天と地ほどの変化と見えたはずである。

 

 昨年一年を基盤にして、今年以降に向って踏み出したいと思っている。

 

 5周年記念といういい方もあるだろう。

 

それはすばらしいことだろう。

 

 しかし、ぼくは、いや、ぼくらは、「ヒデキ元年」という呼び方を、今年に対してしているのである。

 

 

blowup-forever.com

 

 

【ぼくの生まれ故郷は広島です】西城秀樹さんが綴る昭和五十七年の「教科書問題」

のどもと過ぎれば… 西城秀樹 教科書問題で困惑

産経新聞 東京夕刊 1995年(平成7年)12月9日 

 

香港ではいろいろと失敗しながらも、少しずつ“アジアのヒデキ”と認められ、溶け込んでいった。しかし、最大のピンチといえば、昭和五十七年の「教科書問題」の時だったかもしれない。

 

 日本の高校の社会科教科書を中心として検定が強化、日本の中国「侵略」が「進出」と書き換えられるという報道があり、これに対してアジア各国は猛反発した。香港でも大変な反発を招き、「ヒデキ、もしかしたらもう香港でコンサートはできないかもしれないヨ」と関係者から言われた。

 

 僕は政治や外交の世界のことはよくわからないけど、「歌に国境があるわけない」と思っていた。しかし現地に行って、そのすさまじさにたじろいだ。あれから十三年たった今年も政治家が問題発言を繰り返し、アジアの反発を招いている。だが、日本にいるとその怒りの“大きさ”は絶対にわからない。

 

 「教科書問題」が起きたとき、香港でのぼくの記者会見情は異様な空気に満ちていた。普通なら彼らの質問がぼくのことからそれると、日本の芸能界の話題に終始する。ゴシップについては、みな信じられないほど詳しい。アジアでも超スーパースターだった山口百恵ちゃんに関して、「トモカズさんと愛を意識し始めたのは、あのCМではないか?」なんて、とにかく質問は細かい。そんなこと、ぼくが知るわけないのに…。

 

 だが、この時ばかりは違った。「ヒデキさん、日本の政府の対応をどう思うヨ!!」。厳しい質問が次から次へと続いた。正直に言えば政治についてそんなに勉強していたわけでもないので、心の中は、汗びっしょりだった。

 

 なんとか、「みなさん、聞いてください。ぼくの生まれ故郷は広島です」と言うと、記者たちはシーンと静まりかえった。

 

 「戦争を経験していない世代ですが、その傷痕はぼくにもわかります。何といったらいいか難しいけど、平和を願う気持ちはアジアも日本も一緒だと信じています」

 

 通訳の方が記者たちにこの言葉を伝えると、その中のだれかが小さく拍手を始め、やがて会場全体の大きな拍手になっていった。うれしかった。

 

 ヒロシマの悲惨さをアジアの痛みとして感じてくれた人たち…。あの時こうした理解が得られなかったら、ぼくはそこから前進することはできなかっただろう。シンガポール、バンコクなどに続き、ついに中国からもコンサートの依頼が舞い込んできた。

写真提供/明星 撮影/武藤義

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000070063.html

 

 

「のどもと過ぎれば… 西城秀樹 教科書問題で困惑」産経新聞東京夕刊 1995年(平成7年)12月9日

ameblo.jp

こちらのブログに産経新聞に掲載された記事が載っています。ありがとうございます。

 

www.youtube.com

「ヒロシマ」Georges Moustaki(ジョルジュ・ムスタキさん)1972年発表

西城秀樹さんはこの歌を、1979年(昭和54年)5月31日広島郵便貯金会館『ビッグスタースペシャル 光と汗と燃えよ青春-ヒデキオンステージ』にて歌唱しました。

1979年(昭和54年) – BLOW UP FOREVER

 

www.youtube.com

「天と地のかけ橋」

1981年(昭和56年)6月12日 『第八回広島平和音楽祭』(広島テレビ主催)にて歌唱。

1981年(昭和56年) – BLOW UP FOREVER

中森明夫さんが綴る西城秀樹さん

西城秀樹は現代アイドルの“当たり前”を築いたーー中森明夫が功績を振り返る

球場ライブや武道館…コンサートでのペンライトやゴンドラの使用…今では誰もが当たり前に思っているアイドル文化の礎を築いた

 

韓国・ソウルオリンピックの開会式で歌唱し、中国・万里の長城でライブ…
アジアでの人気も高い「国民栄誉賞の対象になっても良いほどの存在」

realsound.jp

RealSound 2018年(平成30年)5月21日

西城秀樹追悼記事のコメント取材。芸能界&アイドル界への貢献、パイオニア性、国際性を考えれば充分に国民的栄誉賞に値すると。

 

中森明夫さん/作家、アイドル評論家。note→https://note.com/a_i_jp7

静岡新聞 SBS 西城秀樹さん追悼 「あなたと、 あなたと歌ったY.M.C.A.を、 静岡は忘れません。」

 

 

 

あなたと、

あなたと歌ったY.M.C.A.を、

静岡は忘れません。

 

西城秀樹さん。

あなたがはじめてフェスタしずおかの

ステージに立ってくれたのは1973年の夏でした。

それから毎年のようにあなたは来てくれました。

フェスタしずおかの出演回数はあなたが最多です。

すでに日本一のアイドルだったあなたが、

静岡まで来てくれることが本当にうれしかった。

当時の熱狂ぶりは、今でも語り草になっています。

最後の出演となってしまった

昨年の超ドSフェスタしずおかで見せてくれた姿は、

今でもはっきりと覚えています。

ありきたりな言い方ですが、本当にかっこよかった。

観客席では、子供や若者やお年寄りたちが、

世代を超えてひとつになり盛り上がっていました。

あの光景は、あなたが起こした奇跡だと思っています。

これからも、あなたについて話すとき、

静岡はひとつになるはずです。

「やっぱり西城秀樹はすごかった」

と若者とお年寄りが語り合うのです。

そのつながりは、あなたが静岡に残してくれたものです。

今年もそろそろ夏が来ます。

でも、もうあなたが来ることがないのだと思うと寂しくなります。

あなたは、静岡の夏そのものでした。

どうかこれからも静岡を照らし続けてください。

西城秀樹さん。

本当にありがとうございました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

 

                    静岡新聞 SBS

 

静岡新聞 2018年(平成30年)5月27日 朝刊

 

 

 

www.oricon.co.jp

 

www.at-s.com

2017年(平成29年)『駿府城夏まつり 超ドSフェスタしずおか』西城秀樹さん出演(8月20日)に関する記事。

甲本ヒロトさんが語る西城秀樹さん

「ロックが僕を変えた」

ギター弾けねえよ、歌うたえねえよ。

だから何だ!ロックやるのに

そんな条件いるのかよっていう

 

ロックンロールの原初的快感に、今あらためて立ち戻らんとするザ・ハイロウズ・甲本ヒロト「沈んでいた」少年期のロック原体験話から、ブルーハーツ結成時の絶対的確信・その後の試行錯誤、そして心機一転のザ・ハイロウズにおける〝ロック馬鹿〟観まで

インタビュアーとすったもんだしながら繰り広げた、ザ・ハイロウズの実像に迫る1時間半、一挙公開!

 

BRIDGE (季刊 CUT) 1997年 (平成9年) 2月号 巻頭特集 (株式会社ロッキング・オン) インタビュアー:渋谷陽一さん

 

ーーハイロウズはさ、割とロック、ロックっていうのをテーマにしてるんだけど、ヒロトの最初のロック体験っていうかさ、これだ!みたいなのは何だったの。

 

「うーんとね、ラジオ。FMラジオで60年代ビート・グループの特集番組を聴いたのがきっかけ」

 

ーーいつくらいの事?

 

「中学1年の時かな」

 

ーーそれ以前のロック体験って全然ないの?

 

「うん。僕、ロックっていうのは僕には関係ないものだと思ってたし、なんかね、乱暴な感じのするものとかってあんまり好きじゃなかった」

 

ーー心優しい少年だった。

 

「いや、っていうかあの、穏便に…」

 

ーー(笑)何だよ、穏便にって。

 

「何て言うかこう、何事もなく日々が過ぎていけばいいなと。波風立てる事ないじゃないですか、みたいな。思ってたよ」

 

ーーあ、そう。じゃ、学校でも喧嘩ばかりしてるってそういう感じじゃなかったんだ。

 

「全然。喧嘩は今でもずっと、弱いですよ。勝った事、ないんですよ」

 

ーー(笑)だけど時々、する事はあるぞ、みたいな。

 

「それはね、だから一方的にやられて、逃げられない状態。一方的に殴られるとか。そういうのは喧嘩って言わないですよね(笑)。いじめられてる(笑)」

 

ーー(笑)で、音楽的な志向性も、そういう暴力入ってたり、乱暴だったりするのはあんまり好きじゃなかったんだ。

 

「それどころか、音楽はどうでもよかった」

 

ーー前、言ってたよね。そういうふうに。じゃ、本当に興味なかったんだ。

 

「うん」

 

ーー例えば、ヒロトはテレビすきだから、テレビの主題歌とかそういうのはあった。

 

「そうそう。それはでも、あくまでも『ウルトラマン』が好きであって、その大好きな『ウルトラマン』の主題歌って事ですよね。だから、それだけ単体でいきなり、パパパパーン!なんて聴いても、『ウルトラマン』知らないであの歌聴いても、何の感動もないじゃないですか」

 

ーー(笑)じゃあ、テレビの主題歌もそれはそれでしかなくて、ましてやレコード買ったりなんかっていうのは、全然なかったんだ。

 

「それがね、小学生の時かな、西城秀樹さんのなんかの曲をテレビで見て、ちょっとカッコいいなと。自分にない、自分の絶対なれない大人の姿。だから僕の想像する大人の自分は、ボーッとして座ってて、親に養ってもらってて」

 

ーー(笑)だって、大人だろ?

 

「いや、っていうか、働かないで親に養ってもらいながら、当然車の免許とかも何も持ってなくて、テレビの前に座ってご飯ですよー、とかおやつですよーとか。だから子供と大人の違いはー僕にとってのねー子供から大人になるって事は、学校に行かなくなるだけだ(笑)」

 

ーー(笑)それ、いくつぐらいの時?

 

「小学校6年くらいまでそう思ってたよ」

 

ーーそれってすごく、頭悪くない?

 

「頭悪いと思う。でも、それ以外に思いつかない。想像力が働かないの、それ以外に。全くリアルじゃないし、自分が働いても、多分、人に迷惑かけるだろうし。うん。そんな感じだった。

ところが西城秀樹を見た時に、何かしら自分が能動的になった。裏の俺みたいな奴が(笑)、一瞬見えたんですよ」

 

ーー(笑)裏ヒロト。

 

「うん。なんかほとんどの大人がリアルに見えなかったのに、ほんの少しリアルに見えた」

 

ーー西城秀樹が。

 

「うん。小学校の4年生ぐらいかな」

 

ーーこれはあるかもしれない、みたいな。

 

「カッコいいなぁと思ったけど、でもまぁ、僕の実力では無理だろうと。そんな感じでしたね」

 

ーーだけど鋭いよね。西城秀樹を見て、自分の裏がそこにあるかもしれないと思った直感はすごく正しかったんじゃない?今にしてみれば。

 

「ああ。うん、それはでも、憧れっていうのかもしれないし」

 

ーーだけど、そういう、例えば西城秀樹的なるものは、全然なかった訳じゃない?

 

「全然なかったよ」

 

ーーなかったけども、ひょっとしたら、これは自分の裏側にあるかもしれないという直感を感じたっていうのは、鋭かったよね。

 

「うーん……うん」

 

ーー俺、西城秀樹見たってさ、自分と地続きのものはゼロだよね、やっぱり。何の連想もないよ(笑)

 

「うん。……ま、それは一瞬、そういう事もあったっつう感じですね」

 

ーーいや、だけど僕から見るとすごく興味深いけどね。だって、ステージ・パフォーマンスをやってる時のヒロトっていうのは、あれだけぶっちぎれている訳じゃない?で、小学生の頃、ああいう自分の要素って知らなかった訳でしょ?

 

「うん」

 

ーー例えば小学5年生の君が、今のヒロトを見て、自分の将来の姿とは絶対思わない訳でしょ?

 

「すっごく驚くと思う。すんげぇ驚く。信じられないと思う」

 

ーーだけど事実はそうなんだからさ。

 

「うん。そうですね。そうなんだよ。なんかだからね、西城秀樹を見た時に、ああ、この人は喧嘩強いんだな、きっと。それは俺と違う。正反対だ。あ、スポーツ出来そうだぞ。僕全然スポーツだめなんですよ」

 

ーー運動神経ありそうだけどね。

 

 

「それが、からっきしなの。そんで、あ、野球もうまそうだなとか、あと、きっとオートバイなんかも乗ってそうだぞとか、いろんな想像。生活力がありそうだとか(笑)。いろんな想像が膨らんだんですよ。小学生の僕にとっては。それはもう女性にもてる要素ってのを、いろいろ兼ね備えてる人だと思った。人前であんなカッコいい洋服なんか着て、髪伸ばしたりなんかして、思いっきり歌ったり踊ったりしてる。すごいなぁ、と思ったんですよね」

 

ーーだけど、なんか自分とは全然関係ない、変わった人っていう発想じゃなくて、裏ヒロト的なものを見たっていうのは、やっぱり何がしか自分の中におけるそういうものを、きっと知っていたんだろうね。小学校の頃も。自覚的ではなかったんだろうけど。

 

「何かしらのカタルシスを感じたんじゃないですかね。スカッとするよな。ロックのスカッってそういうの、あるじゃないですか。自分は何もしてねーのに、なんかフーの〝マイ・ジェネレーション〟むちゃくちゃでけー音でかけて、『ザマミロ、コノヤロウ!』って鼻息荒くなってるような」

 

 

suicidebambi.blog44.fc2.com

 

甲本ヒロトの「生きててよかった10個の事柄」

“西城秀樹さんが『ギャランドゥ』を熱唱するバックで、バックダンサーとしてテレビに映った。秀樹さんはどうだったかわからないけど、僕は最高だった。生きててよかった!”

ブログ主様、書き起こしをありがとうございます。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP (フジテレビ) 1996年(平成8年)6月24日放送

 

 

www.youtube.com

『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS' WANNA ROCK!』1997年

情熱の嵐 ザ・ハイロウズ

 

スージー鈴木さんが綴る西城秀樹さん

【スージー鈴木著「1979年の歌謡曲」*1より】

第二章 1979年の歌謡「人」

⦿西城秀樹

―『ヤングマン』というピークが、80年代以降の西城秀樹の不幸と幸福を規定した

●79年発売のシングル(売上枚数・万枚)

・『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』(80.8)

・『ホップ・ステップ・ジャンプ』(36.9)

・『勇気があれば』(30.8)

 

 79年の西城秀樹、いや、彼の全キャリアの中で『ヤングマン』がピークだったと思う。単に売上枚数だけでなく、時代との関係性において。

 79年前後に、西城及びスタッフが、とても鋭敏な時代感性を持っていたということだろう。70年代的西城秀樹を象徴する、過剰な熱唱スタイルや、ドラマティックな編曲、年上との不倫を歌うやるせない歌詞世界などを一気に封印、アメリカン・ディスコで大ヒット。封印することには勇気が要ったはずだ。そして『ヤングマン』以降も、80年代の気分に合わせてチャレンジを次々と。オフコースから、横浜銀蝿、吉田拓郎、もんたよしのり、ジョージ・マイケル(ワム!)、スティーヴィ―・ワンダーと、シングルの作者を見ても、無節操ながらも、絶えず何か新しいことを仕掛けようというエネルギーを強く感じる。

 ただ、どれだけ鋭敏な時代感性を持っていても、「軽薄短小」な80年代に、西城秀樹の濃厚さを馴染ませることは困難だったようだ。特に高すぎる身長、182㎝と、どろっとしたハスキーボイス。81年には『リトル・ガール』『セクシー・ガール』『センチメンタル・ガール』という「ガール三部作」があるのだが、そういうテイストの曲に、デカい身長とハスキーボイスで向っていく西城の姿に、少し痛々しい感じすらしたものだ(デカい身長が再度、時代に受け入れられるのは、西城と同郷・同身長の吉川晃司の登場を待たなければいけない)。

 80年代の「新御三家」はそれぞれ。音楽もさることながら、プライベートも含めて、身を切るように話題を提供し続けた郷ひろみ。ギタリストとしての音楽性と軽妙な話術で我が道を進んでいった野口五郎。そして、やや不器用ながらも真正面から時代に向かっていき、「軽薄短小」の枠組みに身をかかめて入り込もうとするも、身長が高すぎて、枠組みの上の部分に頭をぶつけて倒れ込んだような西城秀樹。

 では、どのように振る舞えば良かったのか。答えはわからない。私は76年のシングル『ラスト・シーン』を西城の最高傑作に推す立場を取るが、あのような「不倫歌謡」路線が80年代に受け入れられたとも到底思えないのだし。

 ただ、そう考えると逆に、苦闘の80年代が押し寄せてくる直前に、『ヤングマン』というピークをつかめたことは、この上なくラッキーなことだったのかもしれない。03年に脳梗塞を発病、11年には再発。それでも、コンサートで元気に歌っている映像をたまに見かける。曲は当然『ヤングマン』だ。客席と「Y!M!C!A!」で盛り上がっている姿は、とても幸せそうである。

 

1979年の歌謡曲 - 彩流社

 

スージー鈴木さん

音楽評論家、小説家、DJ。BAYFM『9の音粋』月曜DJ。BS12『ザ・カセットテープ・ミュージック』。著書に『サブカルサラリーマンになろう』『〈きゅんメロ〉の法則』『中森明菜の音楽1982-1991』『幸福な退職』『桑田佳祐論』『平成Jポップと令和歌謡』など多数。(Xより)

https://x.com/suziegroove

*1:

「1979年の歌謡曲」スージー鈴木 

2015年11月4日初版 株式会社彩流社

「レコード大賞史上最も美しいシーン」ジュディ・オングさんが語る西城秀樹さん

 

「船越英一郎の昭和再生ファクトリー」

BS12(トゥエルビ) 2024年10月17日㈭21時~

#24【ジュディ・オングの思い出再生旅】

 

今回は11歳の時に女優としてデビューし、16歳で歌手デビューも果たした国際的スター、ジュディ・オングさんの思い出再生旅!ジュディさんといえば、あの名曲「魅せられて」。累計200万枚も売上、昭和54年に輝かしいレコード大賞を獲得。その舞台となった帝国劇場に足を運び、レコード大賞史上最も美しいシーンと言われる「西城秀樹さんのエスコート」の話や、話題となった紅白歌合戦でのあの「衣装」の誕生秘話を語って頂きました。そして作曲家・筒美京平さん、作詞家・阿木燿子さんの「魅せられて」への思いとは!?

番組ホームページより引用

https://www.twellv.co.jp/program/variety/funakoshi-showa/archive-funakoshi-showa/funakoshi-showa-024/

 

MC 船越英一郎さん

アシスタント 阪田マリンさん

『魅せられて』を歌うジュディ・オングさん

ジュディオングさんの思い出再生旅。まずはレコード大賞を獲得した思い出の場所へ。やって来たのは千代田区丸の内にある帝国劇場。

ジュディ:日本レコード大賞を受賞したのはここ(帝国劇場)なんですね。1979年(昭和54年)というのは本当にヒット曲が物凄い多い年だったんです。『関白宣言』『おもいで酒』『舟歌』などが出てましたね。みんな物凄い競争が激しくて。誰が何を獲るかっていうことで。

 

昭和54年のレコード大賞は、史上空前のハイレベルな大賞争いと語り継がれている。

 

さだまさし『関白宣言』八代亜紀『舟歌』小林幸子『おもいで酒』沢田研二『カサブランカ・ダンディ』など。今でもタイトルを聴くだけで口ずさめる曲が数多く大賞候補に。

 

船越:本当に今まで出た曲全部が社会現象だった。

 

西城秀樹『YOUNGMAN(Y.M.C.A.)』売上180万枚超えで数々の賞を獲るも、外国曲のカバーのためノミネートできず。

 

ジュディ:当時、レコード大賞を狙うグループと、歌唱賞を狙うグループ、それから作品賞を狙うグループ、色々あったんですね。

その中で西城さんは、YMCA(『YOUNGMAN(Y.M.C.A.)』)が外国曲だった。どうしてもそれがレコード大賞の候補にならなかったので…。新たな曲を。『勇気があれば』という曲。

 

船越:これもいい歌なんだ。皆さんへの応援歌みたいなね。

ジュディ:で、私と一騎打ちになった。

 

当時は一次審査で投票数の多かった2曲が決選投票を行い、大賞が決定。

そしてこの年は、ジュディ・オング『魅せられて』と、西城秀樹『勇気があれば』が決選投票に。その時のジュディさんはどんな心境だったのか。

 

ジュディ:(ヒデキとは)凄く仲良かったので。住まいも近かったのかな。犬を散歩していたら「おお!ジュディ!」「ハーイ!」なんて言っていたり。お互いにプレゼントしたり、どこに行ったから何とか…なんて時期がありましてね。それで、プロデューサーの酒井(正利)さんが、「仲良しでどうするんだ!もっと目をカッとして、勝つんだ!っていうライバル心を持たないでどうするんだ」と言うんですね。そんなこと言ったって、仲良しなんだからしょうがないと思うんですけど(笑)。

(それは酒井さんには)言われましたね。「もっとキッ!となりなさい」と言われました。当日は胃が痛かったですね。友達とcompute、競争しなきゃしなきゃいけない。

 

プライベートでも仲の良かった西城秀樹さんと争うことに抵抗があったジュディさん。

しかしジュディさんにはレコード大賞に賭ける強い想いがあった。

 

ジュディ:あの年は私にとって本当に選択の年。人生ってね、必ず選ばなきゃいけない、2選択があって、どちらを選ぼうか、人生を変えるという年が必ずあるんですね。

1979年がその年だったんですけど、アメリカの映画『将軍 SHOGUN』の女の子、鞠子の役が来たんです。脚本を読んだ時、これは私以外にないな!と。自分で思っていたにもかかわらず、撮影がどんどん遅れて、なかなか始まらない時に『魅せられて』がヒットして。だんだんスケジュールが満杯になってきた時に、「じゃあ(撮影を)始めます」と。スケジュールの調整が大変だったんですね。私は選択をしなくてはならなかった。

 

子どもの頃から国際女優になりたいと言っていたジュディさん。

その夢が叶うチャンスが目の前に。しかし、『魅せられて』が大ヒットし、レコード大賞という歌手としてはかけがいのない名誉であり、歴史に名を刻むチャンスも同時にやって来た。

どちらを選択するかいいか悩んでいたジュディさん。そんな時、母親からアドバイスが。

 

ジュディ:うちの母がひとことね、「自分がそれで悔しいって思わない、この選択で良かったと思える自分になるために、今日から努力しなさい」と言われたのが、今でも凄く…(※最後聞き取れず)

 

子どもの頃からの夢だった国際女優を諦め、レコード大賞を選択。そこからは悔いの残らない様、全国各地を回ったりと精力的に活動。そして迎えたレコード大賞当日。

 

ジュディ:ヘアも終わって、お支度をして、舞台に上がるっていう本番に向けての時、私の順が来る前に、付いていた女の子が泣いて入って来たの。「どうしたの?」って言っても答えてくれない。「ああ…そうか。わかった、そういうことよね」って心の中では思って。舞台では「ありがとうございます。今日まで一生懸命応援してくださった皆さん、スタッフの皆さん、お父さんお母さん、みんなありがとうございます!」という気持ちで歌ったんです。

 

スタッフの様子から負けを確信していたジュディさん。ところが…。

 

ジュディ:発表の時、高橋圭三さんが、「今年のレコード大賞受賞曲は…」…私はもう、西城秀樹と頭の中でずっと思っていたんですけど、「ジュディ・オング『魅せられて』!」って言われた時にはびっくりして…。嬉しいのと、びっくりなのと、それからどうしよう…みたいな。それで、隣で母が「よかったねジュディ、よかったね!」と言ってくれたんですね。

 

ジュディ:で、舞台に上がる時、足元がなんか踏ん張れないような形で…。サッとこう、私の手と肘を持ってくれる人がいたんですね。フッと見たら西城君でした。ヒデキがね、手にクッと、肘でね、(私が)よろつかないように、ずーっとエスコートして、階段を上がる所まで連れていってくれた。

 

ジュディ:これは本当に、レコード大賞始まって以来、というか、その後も「こんな美しいシーンはない」ってみんなに言われました。

 

西城君に後にね、「あの時は、突然私を助けようと思ってくれていたの?」と聞いたら、

 

ヒデキ:いや、ジュディが獲ったらエスコートしようと思ってた。

 

ジュディ:…って彼は言ったんですね。カッコいいやつでした。

 

1980年(昭和55年)「明星」3月号

 

 

 

関連記事 zakzak 2024年(令和6年)10月15日

【「1979」エンタメプレイバック】音楽編

ジュディ・オングが「魅せられて」で 西城秀樹が「YOUNG MAN」で小学生の心をわしづかみ

www.zakzak.co.jp

2018年(平成30年)12月27日 デイリーニュース

ジュディ・オング 人生懸けた覚悟と秀樹さんとの友情…79年レコ大秘話告白

www.daily.co.jp

一騎打ちムードとなり、当日、司会の高橋圭三さんが読み上げた名前はジュディだった。驚き、立ち上がり、足元がおぼつかない歌姫を支えた人物がいた。

 「発表されて、フラフラしながらステージに向かった。そんな私の肘をスッととる人がいた。見たら秀樹。『大丈夫?』と言いながら、ステージまでエスコートしてくれた。あとでお礼を言ったら、『あのとき、僕が獲れなかったら、ジュディをエスコートしようと決めていたんだ』って。男・西城秀樹、かっこいい男でした」