言葉ではないもので 西城秀樹 書きおこし

西城秀樹さんについて語られた言葉を記録しています。

湯川れい子さんが綴る西城秀樹さん(現代用語の基礎知識 2019・西城秀樹写真集HIDEKIFOREVERblue)

湯川れい子さん

2019年(令和元年)6月23日 歌謡ポップスチャンネル 西城秀樹特集第三弾「メモリアル・ヒデキ」より

現代用語の基礎知識2019年版(自由国民社 2018年11月8日)

【趣味・余暇】ポピュラー音楽 

執筆 湯川れい子 音楽評論家 ゆかわ・れいこ●東京都生まれ。鴎友学園女子高卒。ジャズ評論家としてデビュー。著書『熱狂の仕掛け人』『湯川れい子のロック50年』、共著『ジャズをたのしむ本』『音楽力』ほか。

近年のポピュラー音楽

➤西城秀樹

1972年デビュー、「激しい恋」「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」など数々の大ヒット曲でロック歌謡のジャンルを確立した先駆者的アイドル。野口五郎、郷ひろみとともに「新御三家」としてポップス歌手全盛の一時代を築き、「ヒデキ」の愛称で広く親しまれた。74年には大規模な野外コンサートを大阪球場(当時)で開催、大成功を収めるなど、コンサートスタイルにおいても、常に日本の音楽界を牽引した。広島出身で、アマチュア時代バンド演奏に行った山口・岩国基地で先進の音楽に触れた体験が音楽的素地の一つでもあり、ロック色あるれるエネルギッシュにシャウトする歌唱スタイルは唯一無二といえる。2003年に脳梗塞を発症し、以降はリハビリを続けながら音楽活動を行ってきたが、18年5月16日、急性心不全のため63歳で死去、大阪球場をかたどった祭壇に囲まれ、多くの友人、関係者、ファンに見送られ生涯を閉じた。

 

※この年の「近年のポピュラー音楽」に掲載された話題

安室奈美恵引退/ケンドリック・ラマー/西城秀樹/BTS(防弾少年団)/フェス/EDM /ボーカロイド/ジャニーズ

 

Twitter 2019年2月13日

根強くリクエストのハガキや手紙に、いかに秀樹さんから生きる喜びや勇気を貰ったか、秀樹さんのキャリアへの賞賛を書いて、NHKのラジオを始め、音楽番組をやっているテレビ局などに小まめに出して下さい。見てくれる人、聞いてくれる人がいるという確証が、その人を取り上げる唯一の理由になります。

 

HIDEKIFOREVERblue(集英社インターナショナル 2019年9月30日)

日本のアイドル歌謡に、洋楽を持ち込み広めた先駆者。

英語の発音も驚くほどきれいだった

「…今振り返ってみても、彼は日本のアイドル歌謡に洋楽を持ち込んで、その素晴らしさを広めた第一人者だと思います。先駆者といってもいい。どうしても〝アイドル〟という枠にくくられていましたけど、なさってきたことは本当に革命的なこと。楽曲のカッコよさだけでなく、ロック音楽の詞が持つ、社会的なメッセージなども彼は理解して歌っていらしたと思います。

 香港や中国などアジアに活躍の場が広がっていきましたけど、それも小さいころからの、しっかりとした洋楽体験がベースとなっていたからこそでしょう。香港では『ストレンジャーズ・イン・ザ・ナイト』が47週間も、1位にチャートインしていましたが、フランク・シナトラ版がゆったりしたテンポなのに対して、軽快なテンポと独自のリズムで心をとらえる歌でしたね。

 残念なのは、生きておられるうちに、その革新的だった面が、もっと評価されてもよかったということ。日本は音楽のフィールドが成熟していません。その点では私自身も、もっと動くべきだったと後悔の念があります。普通なら、アイドルが洋楽ものを歌った時点で、なかなか受け入れられないし、ファンが離れてしまうことが多いのに、彼の高い音楽性を理解して、何十年と支えてくださったファンの方々こそ、西城秀樹の魅力をいちばんわかってくださっていたのでしょう。

 でもだからこそ、秀樹さんの業績や、歌の素晴らしさを伝えるのはこれからです。エルビスのコンサートやファンの集いが、死後41年の今も、毎年、行われているように、彼の魅力を何十年も伝えるためには、ファンの皆さんの結束が必要です。

 病気をなさってからもファンの方々は、応援し続けてきましたよね。アイドルが同時代を共に生き、喜び、苦しむ存在であるならば、彼はまさに生きる意味を伝えて、遺していってくれた、そんな存在だったと思っています。」

(後半部分を抜粋)

 

湯川れい子先生、秀樹さんを綴り、語ってくださり、また、秀樹ファンに対しても、愛溢れるメッセージをありがとうございます。