【ぼくの生まれ故郷は広島です】西城秀樹さんが綴る昭和五十七年の「教科書問題」
のどもと過ぎれば… 西城秀樹 教科書問題で困惑
産経新聞 東京夕刊 1995年(平成7年)12月9日
香港ではいろいろと失敗しながらも、少しずつ“アジアのヒデキ”と認められ、溶け込んでいった。しかし、最大のピンチといえば、昭和五十七年の「教科書問題」の時だったかもしれない。
日本の高校の社会科教科書を中心として検定が強化、日本の中国「侵略」が「進出」と書き換えられるという報道があり、これに対してアジア各国は猛反発した。香港でも大変な反発を招き、「ヒデキ、もしかしたらもう香港でコンサートはできないかもしれないヨ」と関係者から言われた。
僕は政治や外交の世界のことはよくわからないけど、「歌に国境があるわけない」と思っていた。しかし現地に行って、そのすさまじさにたじろいだ。あれから十三年たった今年も政治家が問題発言を繰り返し、アジアの反発を招いている。だが、日本にいるとその怒りの“大きさ”は絶対にわからない。
「教科書問題」が起きたとき、香港でのぼくの記者会見情は異様な空気に満ちていた。普通なら彼らの質問がぼくのことからそれると、日本の芸能界の話題に終始する。ゴシップについては、みな信じられないほど詳しい。アジアでも超スーパースターだった山口百恵ちゃんに関して、「トモカズさんと愛を意識し始めたのは、あのCМではないか?」なんて、とにかく質問は細かい。そんなこと、ぼくが知るわけないのに…。
だが、この時ばかりは違った。「ヒデキさん、日本の政府の対応をどう思うヨ!!」。厳しい質問が次から次へと続いた。正直に言えば政治についてそんなに勉強していたわけでもないので、心の中は、汗びっしょりだった。
なんとか、「みなさん、聞いてください。ぼくの生まれ故郷は広島です」と言うと、記者たちはシーンと静まりかえった。
「戦争を経験していない世代ですが、その傷痕はぼくにもわかります。何といったらいいか難しいけど、平和を願う気持ちはアジアも日本も一緒だと信じています」
通訳の方が記者たちにこの言葉を伝えると、その中のだれかが小さく拍手を始め、やがて会場全体の大きな拍手になっていった。うれしかった。
ヒロシマの悲惨さをアジアの痛みとして感じてくれた人たち…。あの時こうした理解が得られなかったら、ぼくはそこから前進することはできなかっただろう。シンガポール、バンコクなどに続き、ついに中国からもコンサートの依頼が舞い込んできた。


こちらのブログに産経新聞に掲載された記事が載っています。ありがとうございます。
「ヒロシマ」Georges Moustaki(ジョルジュ・ムスタキさん)1972年発表
西城秀樹さんはこの歌を、1979年(昭和54年)5月31日広島郵便貯金会館『ビッグスタースペシャル 光と汗と燃えよ青春-ヒデキオンステージ』にて歌唱しました。
1979年(昭和54年) – BLOW UP FOREVER
「天と地のかけ橋」
1981年(昭和56年)6月12日 『第八回広島平和音楽祭』(広島テレビ主催)にて歌唱。